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都市で暮らすこと

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今日は都市で暮らすことについて考えたい。僕がここで言う都市というのは、東京のことである。その点では、「都会の暮らし」ということになる。僕は一昨年の10月に東京都渋谷区代々木に引っ越してきてから、そこでの暮らしについて興味を持ち始めた。都市はどういった場所なのか、そもそも都市の定義とはなにか。そう考えるようになったのは、今住んでいる代々木の回りに(当然ではあるが)高層ビルばかりで田んぼや畑が全くないからだ。田んぼや畑が身近にあれば、自分たちが普段食べている食料がどのように作られているのかを感じることが出来る。たとえ地元で作られた食べ物を普段口にしなくても、収穫期を迎えた稲や畑で育っているトマトを見ると、なんとなく自分と食べ物との繋がりを感じることが出来る。これまで僕が住んでいた場所、埼玉県や神奈川県にはそういった環境が周りに少なからずあった。だから今東京に住んで感じているようなことは感じなかったのだろう。また、サンフランシスコという大都市に住んでいたこともあるが、その時はその異質さに気づかないほど、日本とアメリカの違いに圧倒されていたのだろうと思う。アメリカの大都市はニューヨークにしてもロサンゼルスにしても、東京ほど密集していないから、そう思わなかったのかもしれない。その点、僕はむしろ「東京」という都市について興味を持ったのかもしれない。だから、そこでの暮らしについて少し考えてみた。

都市の脆弱性について

まず今の暮らしいかにして成り立っているかを考え部屋のを見渡してみると、自分の力で手に入れたものは1つもないということに気づく。全てのものが誰かが生産し、そして誰かが運んで、最終的に自分のもとに届いたものだ。まず1人では生きていけないのだ。我々は皆、都市のシステムに乗って生きている。そしてその都市の基盤は大きなリスクを抱えている。当たり前のように供給されている水・電気・ガス。これら災害等で停止してしまった場合、食料の供給も滞ってしまう。東京は血液のようにものが絶えず供給・消費されているからこそ成り立っている。これだけの人口を支える食料ストックはどこにも存在しない。大地震や台風で壊滅な被害を受けてインフラが停止するようなことがあれば、どうにもならなくなってしまうだろう。東京23区には964万人の人が住んでいるが、本来的にはそのような人口を支えきれない。しかし効率的な都市インフラ機能がそれを可能にしている。電気、水道、ガス、下水処理などは特に欠かすことの出来ないインフラである。もし一日下水の処理がされなかったら、たちまち街は異臭に包まれ、外にも出れなくなってしまうと思う。このように都市生活の脆弱性について見つめ直すと、自分1人で何も出来ないことが分かる。どんな立場にいようと、都市で暮らす限りは社会インフラがなければ生きていけない。お金で何でも買えるという市場主義的な考え方に偏りすぎると、こういった事実が忘却されやすくなってしまう気がする。皆、自分1人で生きていけないのに、社会や周りの人のことを見ず、自分やスマホの画面ばかり見ている。

 

都市で働くこと

会社に入って1〜2年目の頃は、仕事についての悩みが絶えなかった。監査法人のIT監査の仕事について、どういう価値があるのかを理解できていなかったし、仕事は全く楽しくなかった。それなりに悩んだし、転職も考えてエージェントと会ったりしたけれど、3年目に入ったあたりからその答えがうっすら見えてきた。僕が働いている会社の21Fにはカフェがあり、そこから皇居や霞が関や赤坂方面のビルを一望できのだが、ビルの中で働いている人達のことに思いを巡らせたとき、「最終消費者に直接「ありがとう」と言われるような仕事をしている人ってどれくらいいるのだろうか」という疑問が浮かんだことがきっかけだった。都市社会学というものに興味を持ち始めていたころだった。そこで行き着いた自分なりの答えは、都市に仕事の大半は社会を機能させる為の「潤滑剤」だということだ。都市というのは人が密集する場所であり、人が集まると分業化が進む。分業化が進むと必然的に他の仕事を機能させるための仕事が多くなる。つまり消費者に直接価値を与えるのでは無く、最終的な消費者に価値を与えるプロセスを効率化する仕事だ。そのような仕事は、目の前の作業の価値をはっきりとした形で感じることは難しい。監査法人系ファームが行っているサービス(監査・アドバイザリー・税務等)は、まさに社会の潤滑剤だと思う。情報を精査し透明性を高めることで、会社やその会社がもつサプライチェーンの信用力を高めている。信用があるからこそ、取引はスムーズに行われ、最終消費者に価値が届けられるのだ。こうして、なぜ仕事が面白くないかという悩みに対して「社会の潤滑剤的な仕事は本来的には面白くない」という結論に達した。でもその事実を受け入れ、本来面白くない仕事を「どうすれば仕事を楽しく出来るか」ということを考え始めることが出来た。ちなみにここで言う面白くないというのは、学生の目線で想像していた「面白さ」ということで、大人の仕事の面白さのことではない。仕事はいくらでも面白くなったり、つまらなくなったりする。それを決定するのは自分なのだ。

 

僕にとって東京で暮らすということ

上記で述べた2点は別に都市だけの話ではないかもしれないが、少なくともここでは僕が東京という大都市に引っ越してきて感じ、その上で少し考察してみたことである。僕にとって東京で生活することは、可能性と限界の両方を同時に感じながら生きることである。ここには沢山の機会が転がっている一方で、自分1人では生活をすら成り立たすことが出来ないのだ。これからもこの相反する2つの事実を日々痛感しながら、毎日生きていくのだろう。